覚え書き:向いている仕事ってなんだ?
後期が始まると3年生、M1生の就活準備が始まります。もちろん夏のインターン、もっと言えば夏のインターンに参加するための準備が5月〜6月には始まっているのですが、今年はインターン開催を延期したり見送る企業も多く、学内での就活講座なんかも同様の措置が取られることが多くありました。
私は修士になってもやっぱり大手内定就活ビッグウェーブに乗り損ねまして、気付けばインターン募集終わっとるやんけ!と涙する羽目に。
手や足を動かす行動型の就活準備はしていなかったものの、ずっとわからなかった「私がやりたいことは?」「希望の業界は?」という最も基本的な部分については考えが固まって来ました。
文系脳のくせに偏屈と天の邪鬼と負けず嫌いを拗らせ工学部、ましてや工学研究科へと進んでしまった私は、やりたいことを考える以前に、私には技術職や研究職という選択肢は与えられているのか?候補に入れちゃって良い身分なのか?などの疑念が湧いてしまって頭がフリーズしていたのです。
しかし、学部4年生〜修士1年の1年ちょっとの間で、自分もそこそこやれるぞという自信がつき、卒業後の見通しも(ようやく)立てられるように…
しかし就活を始めると多くの学生が直面するであろう様々な疑問に、当然ながら私もぶち当たります。別に誰かに話したい訳ではないのですが、文章化した方が脳が整理されて良いので自分のために記録することとします。
まず「何を仕事にするべきか」という点。
私は得意な事と興味のある事が一致していないというか、自分の不得意な事に興味が沸くタイプです。
なので、得意な事を仕事にすべきか、好きな事を仕事にすべきか、はどちらも選択肢としては違うかな。(数字を見たり計算したり、という作業は特別好きじゃないし)
なので、向いてないけど興味のある仕事の中で、自分のパフォーマンスが最大になる点はどこかを探しました。
身近な人達を思い浮かべ、仕事が出来る、もしくは仕事熱心な人々の共通点は何だろうか…と考えた時に思い至ったのは、「オンでもオフでも常に仕事に関する何かを考えている」ということ。
彼ら彼女らは、普通の感覚では結び付かないような経験、体験をいつも自分の仕事に落とし込んで考えているし、目敏く(良い意味ですよ)何かしらの共通点を見付けてそういう事か!と納得している。
その人達はプライベートがない、仕事のことばっかり考えていると言われがちだけど、本人にとってはごく自然なことなんだと思うんです。無理をしている訳でもなく、ただ自然に。
そして、それこそが「向いている」って事なんじゃないのかなと。
自分の脳の中で最も発達した回路を使って仕事をする。
そして、言い換えると、こうであるとも思います。
常日頃からアンテナ張って意識の高い分野で仕事をする。
これだ!これですよ皆さん…私は真理に辿り着いてしまいましたというとかなり大袈裟ですが、ひとつ、私なりの答えが出て来ました。
同じことは就活セミナーなんかでもアドバイスされているんでしょうが、自力で到達した物は浸透力が全然違います。
迷い続けた5年間、とりあえずちょっと出口が見えてきて良かった。
今日はスマホポチポチで目が疲れたので、続きはまた今度書くこととします。
最近の所感
大学院生活も丸半年が経ってしまった10月初旬。
自粛期間が終わって研究が再開して、本格的に実験も再開出来たのは8月の半ばだったかな。
こらえてこらえてようやく半歩進み、またこらえてこらえて半歩だけ進む、の繰り返しです。
これは忍耐ゲームなんだろうか。そうに違いない。
秋になれば、目を背けていた就活が笑顔で手を振りながらこちらに向かって来ています。(来なくていいのに)
修士の2年間って本当に短いのに、就活だけでなくコロナにも時間を取られ、ふいに頭をよぎる「私の研究、M2の12月までで終わるんだろうか」という不安。ついでに「この研究の有用性は本当にあるんだろうか」という疑惑も浮かぶ始末。
焦りと不安で喉がカラカラになるような毎日の中で、最近ようやく、再びの半歩前進がありました。
先生に教わったアレコレと自主的に勉強し積み重ねがなんかうまいこと組み合わさって、現状を打開出来そうな策が出てたのです。
ある人は、研究のことをこんな風に言っていました。わからないことを調べるうちに、あ、これ全然違う、役に立たんやつだ…となってまた調べ直して…の繰り返し。それでそのタイミングでは関係ない色んな知識が蓄積されていつか別の時に役に立つんだと。
私も今まさにその通り、「必要な時にピンポイントで必要な知識を身に着け、最小の労力で最大の結果を得る」みたいな、効率の良いやり方は出来ていません。それに、恐らくそんなやり方は存在しないというか、院生のようなペーペーでは到底無理。(MとDでもまた違うけれど)
遠回りなやり方でしか研究が進まないので、達成感を得るには程遠いし、自分がどれだけ成長しているのかも分かりません。
真夜中に太平洋をたらい舟で横断しているという例えが一番近いのかもしれない。進路が正しいのか前進しているのか後退しているのかもわからない中、それでも櫂を漕ぎ続けているような感じ。
だから、この「半歩進んだ」という感覚はかなり久しぶりなのです…
ただし油断は禁物。ここで、よし!このままスピードに乗ってガシガシ研究進めるぞ、と思うと必ず暗礁に乗り上げる。地道に地道に、コンスタントに頑張り続ける意識が何より大切だと思います。
学会発表苦手を克服したい(1)
私は学会発表が苦手です。
詳しく言うと、学会発表のうち質疑応答が苦手です。
理工系の学生は、どちらかというとプレゼンが苦手で質疑応答はそんなに問題ない人が多いような気がします。みんなちゃんと自分の研究内容を理解してるから…
私は逆で、プレゼンはいけるけど質疑応答は苦手というタイプです。
もともと人前で話すのは苦手で、練習に練習を重ねてプレゼン形式の発表は上手になったのですが、あらかじめ準備ができない状況で人前で話すことは未だに苦手です。
普段の会話でさえ、そこまで親しくない人とお話する時はリアクションや返答などを「想定問答集」から引っ張りだすことでコミュニケーションをはかっています。
私はなぜ質疑応答が苦手なんだろうと考えたところ、
・何が聞かれるのか事前に把握できない
・会話している当事者以外の人たちからやり取りを見られる、聞かれている
・すぐに答えなければいけない
この3点がネックのようです。
書き起こしてみると不思議、たった3つしかないんですね。思っていたより少ない。
その中でも
・会話している当事者以外の人たちからやり取りを見られる、聞かれている
これが特に嫌なんだ!と気が付きました。
そういえば、私は計算途中を人に見られていると頭が真っ白になってしまうし
努力しているところとか練習しているところを見られるのも大の苦手です…
プライドが高いのかただの恥ずかしがりなのか、「ほぼ完璧に出来上がった状態」しか他人に見られたくないんです。
私の幼少期~10代前半くらいまでをたどると、
バランスよく何でも出来るタイプ
⇒何にでも「出来る」を期待されがち
⇒期待されることをプレッシャーに感じる
⇒出来ない所は見せないようにしなきゃ
⇒みんなが見てない所で練習しよう
という考え方・行動の仕方をしていました。
ああ、これがルーツのようですね…「途中経過を見られたくない」という気持ち。
人前に出す時には完璧な状態で、という気持ちに付随して、他人を頼ることも苦手です。
出来なくても何とか自分で解決しようとするし、何かに悩んでも自分の内側でぐるぐるとその気持ちを循環させる。
こう書いていると、「質疑応答が苦手」な原因は「自分をさらけ出すことが苦手」にあるのかもしれないです。
良かった、少し希望が見えてきた。
あとはもちろん、研究内容やその分野に対する理解が不足していることも原因です…
学会で先生方から質問される内容って、そんなに深い部分ではないはずです。今聞いたばかりで浮かんでくる疑問と言えば、その分野に関する・もしくは工学全体に関する基本的な内容でしょう。
おそらくある研究を理解するために通る道筋はだいたい同じで、最初はこういう疑問が湧いてきて、それが解決すればこの疑問が…とみんな似たようなルートを辿ると思うんです。
なので、自分でもっと「なぜ・なに」をよく考えて勉強していれば、余程いじわるな質問者に当たったりトリッキーな質問が飛んでこない限り、かつ初見の人からの質問であれば、
「ああ、その質問ね!私も最初の頃同じ疑問が湧いたんだけどね、」
みたいに対処出来るのでは…と考えています。
「そういうものなんだと思うことにしよう」
苦手な数学で解答を見ても理解できなかった時なんかによくこう考えていましたが、
こんな考え方大学生でもダメなのに、大学院生で未だにそうしようとしている私のなんと愚かなことか。
先生が言ってることわかんないなーと思った時に詳しく聞く勇気も自分で徹底的に調べる根気も持ち合わせていないので、とりあえず「そういうものなんだ」と思う事で間に合わせていました。
私のこの習慣も、改めなければいけません。
もうM1だし、今更遅いような気もしますが、今後の人生で今が一番若いですからね、いつものように「Never too late」を唱えて頑張ることとします。
という事で、学会発表(質疑応答)克服のための道のりとして
・自分をさらけ出す練習をする
・「そういうものなんだ」という間に合わせの理解をやめる
当分の間、以上の2点に取り組んでいきたいと思います。
大学院生活開始後2ヶ月の感想:2ヶ月経ってもやっぱりつらいよ
大学院での生活が始まって2ヶ月が経とうとしています。
授業はずっとオンライン(オンデマンド型が4つ、ライブ型が2つ)だけど、今週末から院生・卒研生の研究活動は再開されました。
少しずつ、従来型の学生生活に戻って行っています。
とはいえ、北九州市で第2波が発生したことによって警戒感が高まっているので、授業の脱オンラインは先延ばしになる可能性もありますが…
COVID-19の影響で前期はまともに研究活動が出来ないだろうと見込んで、今学期だけで卒業要件(授業の単位だけ)を満たすくらいに科目を詰め込んでいます。
それでもたった6科目。
たった6科目なのに、とても苦労しています…
大学院の授業は、学部に比べると数は少ないけど密度が高いです。
6科目のうち2科目はディスカッションがメインで、そのうち1科目は持ち回り制で他人の英語論文を発表します。
残りの受講者も事前に論文を読んで、質疑応答に参加しないといけません。
これが本当にしんどい。
以前も書きましたが私はアタマの瞬発力が本当に全くなくてノロマ中のノロマなので、質問されたことに対してさっ!と回答する事にとても苦労しています。
自分で答えていて、ああ、これ質問された意図と違うやつや…とわかっていながらでも今更修正出来ず回答している時のあの消えたい気持ち…
コイツは私の精神をかなりの勢いで侵食しています。
この授業には肉体的なしんどさもあって、1つの論文を読むだけで8時間以上はかかってしまいます。
もちろん、英語の翻訳だけならそこまでかかりませんが、これどういう意味だろうとあっちこっち調べているとあっという間に時間が経過する。
そこから参考文献や引用をたどって調べるともっともっと時間が掛かってしまいます。
ていうか「理解した」の定義ってなんだ、どこまで調べればわかったという事になるんだ…とか思いながら、結局授業の開始までに間に合わなくて。
変わった性格のせいで、文系女子なのに理系に進んじゃうし、研究室だって一番授業の相性が悪かった先生の所にいってしまうし、自分で自分の首を絞める行動ばかりとってしまいます。
なんか生まれてこのかたずっとハードモードだわ、と思っていましたが、そりゃそうだ、私を苦しめる原因が他でもない私なのだから…
だけど最近少しだけ楽しさを見付けられるようになりました。
当たり前の事ですが、事前準備をこれでもかとしっかりやれば、他の人を出し抜く事は出来ないけれど、悪目立ちしない程度には授業についていけます。
今までは頭一つ凹んでいましたが、人の倍くらい時間と手間を掛ければとりあえず追走は出来る気がします。
苦手な事に正面から向き合うのはマジで大変です。
しかも時代の流れに逆行しためちゃめちゃコスパの悪い生き方です。
だけどもともと苦手な事がほったらかしにしていて出来るようになる訳がないので、私はバカ正直に向き合っていこうと思います。
コロナと大学院初年度が重なると不幸しかない
タイトルの通りです。
今日から、大学院の講義が始まりましたが、自分の才能の無さ、この学問への向いてなさを再認識し打ちひしがれています。
元々、理工系の思考回路は持ち合わせていません。ガッツリ文系脳です。
何を根拠に、というとガッコウの試験では国語・英語は少し勉強すればグンと成長したり、特に勉強せずとも良い点数が取れていました。
ある人がツイートしていましたが、「特に努力せずども簡単に良い感じに出来ちゃうことって誰しもあって、それを仕事にするとうまくいく」と。
私のゆく道は真逆です。天邪鬼をこじらせ、負けず嫌いの度が過ぎ、諦めの悪さがむくむくと成長した結果がコレです。
賢い同級生に囲まれて私が出来ることってなんでしょうか。
役に立てることも、これだけは負けないぞという強みも何も見つかりません。
今年度の始まりは実に不幸でした。
コロナウイルスによる社会不安の長期化が見込まれる事で22卒の就職活動はオワタ確実、そこに大学院での新生活スタートが重なり私のメンタルはボロボロです。
これまでは「いいところに就職できる」というニンジンが目の前にあったから、地方の弱小私大卒がジャイアントキリングかますぞと意気込めた訳です。ですがニンジンはもうありません。
未来はまだ何も決まっていないはずなのに、既に運命が決まっているかのような錯覚を覚えます。
もう無理だと感じた時にもうひと踏ん張りする方法を、私は忘れてしまいました。
ああしんどい。社会人院生の人もブログでも見て、勇気を貰って来ようと思います。
先が見えない不安の中で感じていること
コロナウイルスによる経済、教育などの活動自粛は、どう考えても1年では済みません。
感染者数が減少し、思惑通りピークを抑えることが出来たとしても、たった一人無自覚の保菌者がいればたちまち集団感染が引き起こされます。
そうして感染した人々が通常通りの生活を送っただけで、また新たな感染者を生み出します。
「コロナが終息したら」
とはよく聞きますが、それがいつ頃になるのかどうか、今は全く想像出来ません。
そんな中で浮き彫りになっているのは社会の格差です。
公立の小中学校はまともな教育活動が出来ていない中、私立では既にオンライン授業が始まっているそう。
海外からの派遣労働者はまともな説明もされぬままに解雇され、赤ん坊のミルクやおむつを買うことさえも難しく困り果てています。
フリーランスや個人事業主への補償が叫ばれるのを「自己責任だから国に補償を求めるな」と嘲る同業者は、自ら成功は自身の才能と実力の賜物であると信じ切っているようです。
SNSでは、大学が学び舎であるという認識に欠けた大学生たちが、サークル活動や友人と遊びほうけるための時間を取り戻すべく立ち上がってしまいました。
人生は配られたカードで戦うしかないゲームである、といった例え話をよく耳にします。
私はある人から見れば非常に恵まれているし、また別の人から見れば大して恵まれていないのでしょう。
ですが、教育だったり、賃金だったり、娯楽だったり、人間としてこれくらいは受けられるはずだというラインは存在して、自分はそれ以上のものは貰って来た自覚はあります。
私が今思うのは、自分は「普通」を普通に手に入れる事が出来ない人たちに寄り添って生きていきたい、ということです。
明日を生きられるかどうかを孤独に悩む人や、未来に絶望しきっている人、頑張っても先が見えずにもがいている人、そういう人たちのために人生を使いたいと、今感じています。
コロナウイルスに関する自分の記憶メモ
これまでに類をみない世界的緊急事態、自分も歴史の証人になっているんだという感覚を毎日ひしひしと感じています。
今こそ自分が感じたこと、考えていることを遺すべきなんだと思い至り、何度も続けようとしてダメだったブログを再開します。
私は4月から大学院1年生、予定では研究とちょっとの講義とTAに忙しい毎日を送るはずだったのに、未だに長すぎる春休みの中にいます。
緑溢れる大好きなキャンパスは構内への立ち入りさえも禁止、4/16時点では、GW開け(5/6)まで休業が続く事が決まっています。
アルバイト先も休業していますが、リモートワークとして企画書や業務マニュアルを作成する事でお給料をいただけるので、今のところ、金銭面ではめちゃくちゃ困窮している状態ではありません。
外出は家とスーパー、病院くらい。
卒論が忙しかった年明け~3月は人間的な生活が送れなかったので、料理や掃除など日常のいろいろを丁寧にやりたい欲が溜まっていました。
しかし今は、長すぎる休暇でやりたい事リストも消化してしまい、一刻も早く研究室に戻りたいです…
思えば1月初旬、武漢でナゾのウイルスが拡がっている、という報道を目にした時には、発生地が中国ということから嫌な予感がしたものの(SARS、鳥インフル、元の隠蔽体質などから)、経済や医療体制にここまでの危機をもたらすものだとは思いませんでした。
記憶にあるのは、2/13もしくは14に大学の先生・友人と昼食を共にした時、コロナウイルスに関するニュースを見ながら「(致死率は)インフルエンザのようなものなのだから、人々は騒ぎすぎだと思う」と発言したことです。
妊婦さんや高齢の方、基礎疾患のある方への感染には十分に気を付けるべきだけど、メディアはまた不安を扇動しまくっているな、と。
当時の私はそういった考えでした。
春休みは弾丸でアジアへ一人旅をしよう、と思っていた私は、3月の頭まではそういう考えがありましたが、連日報じられる帰国者の感染や東アジア以外への地域の感染拡大を見て、国外は危ないな…と旅行は諦めました。
ただ、今回は「弾丸」だから旅行の中止を決めたものの、もしも航空券、ホテルなどを事前予約していたら、そして旅程が3月前半ならば、キャンセルの手間や手数料を考えて(卒業旅行というプレミアもあるし)、決行していただろうなと思います。
3月半ばには、卒業式の式典中止の連絡が来ました。式当日の1週間前。
その後も細切れに連絡が来て、式典中止⇒学科ごとに大きな教室で学位授与式⇒学位授与式も中止、最終的に研究室・ゼミ単位で証書授与となりました。
しかし、大学内では「研究室・ゼミ単位で証書授与」も、教職員・学生への感染リスクがある事から中止にすべきとの声があったそうで…
卒業生からすると、式典が無いだけでショックなのでたまったもんじゃ無いのですが、まあ3月も半ばになるとそれだけ危機感が高まっていました。
ただ、その危機感は大きな組織を管理する側の認識であって、一個人としてはまだどこか他人事という感じでした。
私の大学では3月末にようやく前期授業が遅れる事がわかりました。この発表は、近隣や関東・関西の有名大などと比べるとかなり遅い方でした。
年度が変わり4月、学内への立ち入り制限⇒緊急事態宣言による学内への立ち入り禁止(4/8)⇒授業開始GW明けに延期⇒前期は遠隔授業に(?)、とちょこちょこと連絡が来るようになり、ひとまず授業が受けられる目処は立ったところです。